概要

一仏両祖
一仏両祖

曹洞宗の流れは、インドでお生まれになられたお釈迦さまの教え、おさとしを幾世代にも渡って祖師方が、悟りの生活を通して、師匠から弟子へと受け継がれ、インドから中国そして日本に伝えられてきたものです。
曹洞宗の源はお釈迦さまですから、ご本尊さまはお釈迦さまです。
今から八百年ほど前の鎌倉時代に、永平寺を開かれた「高祖」道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を中国から日本に伝え、總持寺を開かれた「太祖」瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに、「一仏両祖(いちぶつりょうそ)」として仰ぎます。
拝む時は「南無釈迦牟尼仏 (なむしゃかむにぶつと、お唱えして礼拝します。
現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒がおります。

歴史

道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのです。特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこたえ、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。

大本山

高祖道元禅師様
高祖道元禅師様

●福井県 大本山永平寺(高祖道元禅師様御開山)
 開山は、道元禅師。開基は、波多野義重。寛元元年(1243年)、京都深草から越前に入り、吉峰寺・禅師峯寺に住み、寛元2年7月、傘松峯大仏寺を建て、寛元4年6月に永平寺と改名した。また、宝治2年(1248年)11月、傘松峯を吉祥山に改めた。永平寺の寺名には、釈尊から伝わる正しい仏法を実践する日本仏教の総府であるとの、道元禅師の自負がうかがわれます。

永平寺
永平寺

 三方を山に囲まれ、南方は永平寺川の清流に面する仙境で、境内地はおよそ33万平方メートル(約10万坪)、建物は70余棟から成り、代表的な建物は、山門・仏殿・法堂・僧堂・庫院・浴室・東司のいわゆる七堂伽藍であるが、このほか、承陽殿(道元禅師御廟)、衆寮(修行僧が読書などをする建物)、接賓(本来は来客をもてなすところであるが、修行僧の教育に携わる役僧の部屋がある)、不老閣(住持の居室)、妙高台(住持が来賓に応対する部屋)、大光明蔵(住持が檀信徒に説法を行う部屋)、傘松閣(参拝者をもてなす広間)、菩提座(指導の役僧が修行僧に講義等をする部屋)、祠堂殿(檀信徒の位牌をまつる堂)、舎利殿(檀信徒の納骨堂)、吉祥閣(檀信徒の研修所)、一華蔵(宝物庫)、経蔵、勅使門(住持・勅使または特別の来賓を送り迎えする門)、鐘楼そのほか、延べ4500坪あまりの建物があります。
 八百年近くにわたり栄枯盛衰を繰り返しながら、不滅の法灯を掲げつづけており、曹洞宗の檀信徒であれば、一度は参拝をすべき寺院であると思われます。
(福井県吉田郡永平寺町志比)

太祖蛍山禅師様
太祖蛍山禅師様

●横浜市 大本山總持寺(太祖蛍山禅師様御開山)
 開山は、瑩山禅師。元亨元年(1321年) 真言宗の定賢権律師から諸岳観音堂を寄進され、寺号を山号に改め、諸岳山總持寺と称えて、禅院としました。もとは石川県輪島市にありましたが、明治31年(1898年)に焼失したため、明治40年(1907年)、横浜市鶴見区に移転しました。寺域は約30万平方㍍で、数十の甍が建ちならび多くの修行僧を擁しています。
 石川県の旧址は、間もなく復興され、總持寺祖院と称し、瑩山禅師の祖廟としての面目を堅持しています。

総持寺
総持寺


 鶴見の總持寺のある場所は、永平寺と違って国際都市横浜の丘陵地帯であります。山の永平寺に対して街の總持寺ということになり、両大本山の性格と使命が、対象的な好一対として、よく表れています。
 主要な建物は、山門・仏殿・法堂・僧堂・庫院・浴室・東司のいわゆる七堂伽藍でありますが、この内、法堂は、總持寺の場合太祖堂と呼んで、独特であります。間口五四・五㍍、奥行き47.2メートル、地上・地下各一階、床面積六、611平方メートル、畳数千枚、地盤から棟の上端まで36メートルという大伽藍であります。他に伝灯院(瑩山禅師御廟)、放光堂(檀信徒の位牌をまつる堂)、常照殿(檀信徒の納骨堂)、御霊殿(後醍醐天皇、南朝八代の天皇をおまつりする。)、紫雲台(住持が全国の寺院住職や檀信徒、貴賓と公式に面接する部屋)、跳竜室(住持が賓客と接見する部屋)、天真閣(客殿)、待鳳館(客間)、三松閣(檀信徒の研修道場)、衆寮、勅使門などがあります。
(神奈川県横浜市鶴見区鶴見2)

ご本尊と唄名

曹洞宗は、お釈迦様をご本尊として仰ぎます。
本尊唱名:南無釈迦牟尼佛
(なむしゃかむにぶつ)